それで私は二胡の音を少し入れました。
いつも思うんですけど山木さんのライブってなんだかとても温かい空気があって、山木さんとお客さんの関係がステキです。いいなぁ〜って思いました。
山木さんの作る歌詞や音楽、ライブ中のトークは自然で素朴で、そこにいるとまるで昔から親しい友達か家族、あるいは恋人のように感じられます。こんなところも山木さんの大きな魅力のひとつです。
山木さんを絶賛している私ですが、
ここのところは二胡の基礎や古典曲などを地道にやっています。同じことの繰り返しで実に地味です。
華やかできらびやかな山木さんとは似てもにつきません。
二胡の音色はとても繊細で表現力があります。
でも・・楽器に表現力があっても・・・。
例えば12色の絵の具を持っている人と300色の絵の具を持っている人が絵を描きました。300色あったら12色よりもそれはすごい絵が描けるはず。
300色使えたらそれはすごいでしょうけど、できれば「全部なんて使いませんよ」と言ってほしいです。
二胡は細やかな音色を表現することができてそれはほぼ無限です。
それで細かくやっていると、やっているうちに自分がどこにいるのかわからなくなってしまうんです。
何がしたかったのか、何を現したいのかわからなくなってしまいます。
同じことばかりを繰り返しやっとほんの少しできたような気になって、よく考えると『この調子だと軽く100年以上は必要、多分もっともっと必要、私の人生じゃ全然足りないじゃない。これでいいの?』なんて思ってブルーになります。
なんで自分はこれをしているんだろう、何のためにやってるんだろう、どんな意味があるんだろう、私なんかにできるわけない。更には「私って意味ある?」「もしかして存在さえ無意味?」などそれを言っちゃおしめーだ、みたいなことを思い始めます。
弱音を言っている自分、弱っている自分。
しんどいし、辛いし、無力感・脱力感はどんどん元気をすいとります。
何がしんどいかって、信じるもの(二胡)がみえなくなったり、がんばる意味がわからなかったり、価値がわからなくなってどうでもよくなってしまうこと、これほんとしんどいです。私一体いくつになったんですか、この歳になったってこれで悩むんです。
まるで広い海の真ん中に落っこちて溺れ死にそうになっている自分、このままでいいの?だめでしょう。なんとかしなきゃ。どうするの?誰が助ける? 私でしょう。
そんなことを思っていると蜘蛛の糸が降りてきて「意味なんていらない」「物事に正しい答えはない」「今を大切にしていけばそれで十分」などの考えがわいてきます。
弱音は言ってもいいんです。
こうやってブツブツ言っていると「この人をどうやって助けたらいいのか」と考えるようになります。弱音をよく聞いてこの困ってる人を助ける方法を導き出す知恵をしぼるんです。生きるって大変、本当大変だけど、私、ぼちぼちがんばれ。
今日山木さんとご一緒させて頂きまるで別世界へワープしたようでした。
とても楽しかったですし、幸せな気持ちになりました。
音楽ってこうでなきゃ。
私も誰かを元気にできる音楽をやりたい。
おやすみなさい。
春日井市のカフェカレドニア |
山木さんのいないステージ |
写真には映らないものがあります。でもそれおばけじゃないです。 |
教授と博士、それから真ん中は有能な助手 (なんちゃって劇場) |
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